どうせなら明るい障害者

発達障害で躁うつ症です。基本独り言日記。障害を持っていても『こうすれば出来ないと思っていた事が出来た』と感じた事や出来事、自分なりに試したりやってみた事、その経過や結果を伝えられたら良いかなと思っています。

失敗を糧に前向きに将来と向き合う

就労移行支援事業所を運営する本社への実習

 

こんな下書きを見つけた。

 

以前通所していた就労移行支援事業所での実習の話です。

変わった実習で、これまでの生い立ち?を自由に書いてください的な実習。

初の試みとかで。

で、下記が、書き起こしたもの。

最後の方は時間なくて、おざなりにw

 

 

◉失敗を糧に前向きに将来と向き合う◉

 

幼少期は他の人よりよくしゃべる子供、高校生で始めたアルバイトで自分に違和感を感じる

私の障害はADHD(注意欠陥・多動性障害)と二次障害の躁うつ症です。診断されたのは大人になってからです。
幼少期は親からいつまでもしゃべり続ける子と言われ、たまに黙っていると体調が悪いのではないかと確認される程でした。近所の方たちにもあの子は1、2時間ずっとしゃべり続けると言われていたそうです。当時はただのおしゃべりな女の子という認識でした。
就学後は、アトピー性皮膚炎からいじめにあってしまい、小学1年生~中学2年生まで不登校で、たまに登校する程度でした。そのためのクラスメイトと自分の違いや、人との関わり方の違和感、発達障害からの困りごとなどはわかりませんでした。ただ、いじめから人との関わりが苦手になってしまい、自己肯定感も低くなりました。性格により躁うつを発症すると医師から聞いたことがあるので、今思うと将来躁うつを発症する一つのきっかけだったかもしれません。
中学3年生の時に、学校へ行けるようになり、無事高校へ進学することができました。高校生になるとすぐにアルバイトを始めました。しかし、いくら業務を教えてもらっても周りの人達のようにすぐに覚えられない、いくら注意されてもミスばかり、同じミスも何回も繰り返していました。ミスが目立ちすぎ周りからも「またあの人ミスした」「一緒に働くと迷惑」といった対応をされてしまう程でした。自分だけこんなにミスが酷いなんて…と自分を責めてしまう程でした。当時は発達障害という言葉も知らず、他の人との違いに違和感は持ちつつも「自分はただダメな人間なんだ」と思っていました。


就職するがうまくいかず職を転々とするなか、躁うつを発症。同時にADHDの診断を受ける

高校卒業後は広告関係のデザインを学び、印刷会社に就職しました。しかし、ここでもアルバイト同様業務がうまくいきませんでした。デザインデータの誤字脱字は日常茶飯事でした。上司からも呆れられてしまい、ついにはあなたが実務をすると迷惑だから明日から実務に手を出さないでほしい。練習用データで練習する期間を定めるから、その成果によっては辞職を検討する。といった形になりました。そして、数週間後にはデザイン部門から外れることになりました。雇用形態を正社員からアルバイトに変更し、印刷工場勤務の辞令を受けましたが、自主退職しました。
その後は、自分の向いている事、やりたい職業を探したいと思い、様々なアルバイトをしながらwebデザインの勉強もしました。アルバイトを通して接客や調理補助といった作業が得意なことがわかり、社員登用のお話をもらうことや別のアルバイトではサブリーダーになるなど、充実したアルバイト生活を送りました。数年後にメガネ販売店の販売員として就職をしました。しかし、メガネ屋では接客だけでなく、視力検査、メガネの加工等、多岐にわたり業務をこなさなければなりませんでした。さらに正社員になると自分だけではなく周りのアルバイトさんや後輩のこと、お店全体のことも考えねばならず、パンク状態になってしまいました。ADHDの特性上複数作業の同時進行が難しく、私にはとても困難な状況でした。それでも周りに支えられながらなんとか4年半勤めました。会社の経営悪化から各社員に自主退職の勧告があり、その際に今後の育児のことも考え自主退職を希望しました。
その後は短時間のパートを始めたのですが、そのパート先でやはり業務がうまくいかず、業務がうまくいかないことから人間関係が悪化してしまいストレスで動く気力がなくなり、精神科を受診しました。その際、うつとADHDかもしれないと医師から告げられました。通院してしばらく経過してから、ADHDと躁うつ症と診断されました。


就労移行支援事業所へ通所開始、無事就職が決まり障害者として就労するが…

障害の診断を受けてから数か月休養をし、その後はパートや保険営業の仕事をしたのですが、体調が悪化してしまい退職しました。このままでは職を転々としてしまうのではないかと不安になり、今後の働き方を考え障害者雇用がいいのではないかと思いました。ですが、当時障害者雇用について全くと言っていいほど何も知らず、とりあえずネット検索をしたところ就労以降支援事業所というものを知りました。事業所を何件か見学に行き、就活関係のプログラムだけでなく、障害理解、ストレスケアなど様々なプログラムがあること、スタッフさんが感じ良くて安心できそうなこと、センターの雰囲気が和気あいあいとしていて自分に合うなと感じた就労移行支援事業所に通所を決めました。通所後はプログラムだけではなく、自主訓練でも自身の障害説明書を作成したり、他事業所へ行って自分の障害について発表する機会などをいただき、障害と自己理解を深めるいい機会になりました。そうした機会や、スタッフさんのお話、プログラムを受講して、障害と自己理解は障害者雇用では重要だと感じました。雇ってくださる側も、雇用した人の障害や配慮点を100%理解できるわけではないので、自身が理解し企業側に発信することで、双方が働きやすい環境になるのではないかと思ったからです。そして、スタッフさんの支援もあり無事就職が決まりました。しかし、2年ほどで体調不良で退職しました。自己理解もできたし、障害に関しても発信できると思い就職したのですが、実際はうまくいきませんでした。定着支援も受け頑張ったのですが、なかなか思うようにいきませんでした。今振り返るとあの時こうしていれば…など、思うところはたくさんあります。


一度ではうまくいかいない事もある。失敗を糧に次へ進みたい

退職が決まり少し休養したいと思う反面働きたい意志はありました。定着支援でのスタッフさんにお世話になっていた際、退職後の相談も聞いていただいていました。今後も障害者雇用か一般就労か…いろいろ考えた結果、もう一度障害者雇で働きたいと思いました。就職前も就職後も沢山お世話になった就労移行支援事業所でまた支援していただきたいと思い再通所を考えることにしました。就労以降支援事業所は基本一生涯に一度のみ利用可能と認識していたのですが、市区町村の窓口に相談をすることができることを知り、障害者窓口に何度も相談し、なんとか再利用の許可をいただきました。現在再通所中です。一度障害者雇用で就労の継続ができず、失敗したなと思ったりもするのですが、何事も一度ではうまくいかないこともあると今は思います。前回の失敗したなと思う経験を糧に今後どうすれば上手くいくかを考えながら、再度障害者雇用の就労を目指して前向きに頑張りたいと考えています。

 

 

以上でした